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このGWに友人のお義父さんが病気のため旅立ってしまった。
とても悲しいことだが、彼や彼のまわりの家族には悲壮感は感じられない。 それは、"やるだけのことはやってあげた" という満足感に満たされているからである わたしにも同じような経験がある。 当時だんなさんだったいけちん(と呼んでしまおう)が30歳という若さでこの世を去ってしまった。 結婚してわずか1年半。 病名はすい臓がん。末期で手の施しようがなかった。 病気が見つかったのは夏の暑さがひと段落して、きんもくせいが芳しく香る秋だった。 いけちんはとても明るい性格でいつも冗談を飛ばして周りの人をよく笑わせていた。 そのくせ人一倍気を遣う人だった。 だから友達が大勢いたし、とても彼らを大切にしていた。 いつだったか「私と友達といったいどっちが大切なの!?」と喧嘩をしたことがあった。 うそでもいいから「君のほうが大切だよ」って言ってくれればいいのに 「そんなのどちらかなんて選ぶことなんてできない。そういう次元の話じゃない」 と頑固に譲らなかった。 いけちんは自分の病気のことを主治医から告知されていた。 その時、「来年の桜を見ることはできますか?」と静かに尋ねたという。 先生からの答えはなかったそうだ。 いけちんは2回の抗がん剤治療の後、一時退院が許された。 その時、もう体はぼろぼろなのに、私の反対を聞かずに会社へ出社した。 多分、自分の仕事の整理をしてきちんと片付けておきたかったのだろう。 温かい日には二人で公園をよく散歩した。 お正月にはお義父さんとお義母さんが上京し4人で伊東へ温泉旅行へも行った。 「気持ちいいなぁ」と喜んでいた顔が目に浮かんでくる。 わたしは主治医からすい臓がんに効く抗がん剤はないし 手術も不可能、放射線治療も効果がないと聞かされていた。 文字通り袋小路であった。 だからガンに効くというありとあらゆる民間療法を試した。 今では笑い話だが、病気が治ると聞けば新興宗教にも足を突っ込んだ。 結果的に新興宗教についてはいけちんがもっとも嫌がるものだったので かえって心配をかけてしまう結果となってしまったが 文字通り、藁にもすがる思いだったのである。 次の年のお正月明けに吐血。緊急入院。 私も初めて救急車に乗った。本人は吐いてスッとしたと言っていた。 二人で並んで座って病院へ向かったので、救急隊員の人に逆に心配されてしまった。 「あんた、大丈夫かぁ?」って(笑) しかし、救急車って意外と揺れるものなんだなぁと記憶している。 吐血は原発のすい臓がんが門脈へ浸潤しており、食道静脈が破裂したことによるものだった。 破れた箇所をクリップで止血し、その晩は私とちょうど私の母が来てくれていたので 病室の簡易ベッドで2人泊まることになった。 いけちんは決して弱音を吐かない人だった。 けれどその時だけは涙を流した。 よほど悔しかったのだろう。 それからの約3ヶ月、個室に移された後、私は病院に泊まりこむ生活になった。 いけちんの明るく、穏やかな性格のおかげで静かな毎日だった。 車椅子にいけちんを乗せて病院内を散歩したりした。 夕方には西の太陽が沈む空に富士山がくっきり見えた。 明日もこの風景を一緒に見られるだろうか? とにかく一日一日を大切に過ごしていた。 痛みがひどくなり、モルヒネの影響で幻想が見えたりしていたようだ。 何も用事はないはずなのに会社へ電話するのを私は止められなかった。 その後、上司の方へお詫びの電話を入れたら、万事了解してくれていた様子だったので安心した。 3月21日、ちょうどお彼岸の中日の早朝、彼は旅立っていってしまった。 もうちょっとで桜が咲く季節の直前であった・・・。 悲しかったけど私には後悔はなかった。 いけちんにしてあげられることはすべてやってあげた、という自負があった。 唯一の心残りは、生前彼の意識がはっきりしていた時のこと 夜中に目を覚ましたいけちんは、私に「俺が死んだら、体の使えるところは全部使ってくれ」と 静かに話した。 いけちんは最後に自分にできることをドナー提供という形で希望していたのである。 でもそれをかなえてはあげられなかった。 尿が出なくなりいよいよあと1週間が山場です、と主治医から告げられた。 ドナー提供の話を、それとなくお義父さんに話した。 ところが、それには本人の確認書類がいるらしくて今の息子にそれを書かせるのは酷じゃないかと言われた。 まだ意識ははっきりしていたので、どうにか方法はあったはずだと思うが 亡くなった息子の体にメスを入れられて切り刻まれるのが絶えられなかったのだと思う。 それを察したので、それ以上なにも言えなかった。 いけちんの葬儀には何百人もの人が訪れてくれた。 会社関係、友人などびっくりするくらいで、告別式場へ入りきれなかったくらいである。 いけちんの戒名をつけてくれたのは埼玉県戸田市にお寺を構える若いけれども 温かくて、力強い声の持ち主の立派な住職さまだった。 『春學院温与良純居士』というのがいけちんの戒名である。 東京本社へ転勤となっていた父と母が暮らす埼玉県で2年間を暮らし 3回忌を済ませた後、私はいけちんと一緒に長い間暮らしていた神戸へ戻った。 *** 月日は流れいけちんが亡くなって約10年後に私は再婚した。 やすさんは気にしないと言ってくれていたが、姓が変わってしまったので このままいけちんを預かっておくのはまずいと思い始めていた。 人一倍気を遣ういけちんにとっても、きっと居心地が悪いはずだ。 そこで13回忌を機に戸田の住職さまに永代供養をお願いした。 その時の話である。 魂というのは好きなときにどこへでも行けるそうなのだ。 その時、わたしは先ごろ大ヒットした「千の風になって」という歌を思い出していた。 わたしはこの歌が世間で話題に上るちょっと前に偶然NHKの何かの番組で聞いていた。 私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています このフレーズを聞いたとき知らず知らずのうちに涙があふれていた。 なんだか心が洗われた気がした。 魂は自由なんだ。 きっと友人のお義父さんもいけちんも風になって自由に大空を飛んでいることだろう。 そして、いつか私も旅立ったときは風になれるのだと。
by monet_mum
| 2008-05-08 17:17
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